横浜地方裁判所横須賀支部 平成9年(わ)103号 判決 1999年3月30日
主文
被告人は無罪。
理由
第一 訴因の特定及び公訴権の濫用について
一 訴因の特定について
起訴状記載の公訴事実は、「被告人は、平成八年一〇月九日午後九時三〇分ころ、業務として普通乗用自動車を運転し、神奈川県横須賀市安浦町一丁目八番地先の時差式信号機により交通整理の行われている交差点を浦賀方面から平成町方面に向け右折しようとするに当たり、同信号機の対面信号が黄色表示に変わったのを同交差点入口に設けられた停止線の手前約二六・六メートルの地点で認めたのであるから右停止位置に停止して右折進行を差し控えるべきはもちろん、同停止位置に停止せず、あえて右折するに当たっては、同交差点入口付近で前方約五四・三メートルの地点に対向して進行して来る山下裕隆(当時二六年)運転の自動二輪車を認めたのであるから、同車の動静を注視し、その安全を確認して右折進行すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、黄色信号を認めたのに停止位置を越えて進行するとともに、自車の対面信号が赤色表示に変わったことから右山下運転車両の対面信号も赤色表示に変わったものと軽信し、同車は同信号に従い停止するものと即断し、同車の動静を注視せず、その安全を確認しないまま時速約二〇キロメートルで右折進行した過失により、同車に自車との衝突を避けるため急制動のやむなきに至らせて同人を同車もろとも転倒・滑走させた上、自車左側部に衝突させ、よって、同人に肺挫傷等の傷害を負わせ、同月一〇日午前零時二五分ころ、横浜市金沢区泥亀二丁目八番三号金沢病院において、同人を右傷害により死亡させたものである。」というのであるが、検察官の釈明をそのまま総合すると、本件訴因は「被告人は、平成八年一〇月九日午後九時三〇分ころ、業務として普通乗用自動車を運転し、神奈川県横須賀市安浦町一丁目八番地先の交差点を浦賀方面から平成町方面に向け右折しようとするに当たり、同交差点入口付近で前方約五四・三メートルの地点に対向して進行して来る山下裕隆(当時二六年)運転の自動二輪車を認めたのであるから、同車の動静を注視し、その安全を確認して右折進行すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、同車の動静を注視せず、その安全を確認しないまま時速約二〇キロメートルで右折進行した過失により、同車に自車との衝突を避けるため急制動のやむなきに至らせて同人を同車もろとも転倒・滑走させた上、自車左側部に衝突させ、よって、同人に肺挫傷等の傷害を負わせ、同月一〇日午前零時二五分ころ、横浜市金沢区泥亀二丁目八番三号金沢病院において、同人を右傷害により死亡させたものである。」となるところ、信号との関係について「被告人の過失は、交通整理の有無とも、信号灯火の色とも関係がない」旨釈明しているが、裁判所から見た場合、訴訟上の経緯からして右のような言い回しをしているに過ぎず、検察官の平成一〇年一一月五日付け意見書をも勘案すると、検察官の主張する被告人の過失は、「被告人は、交差点入口付近で、信号が全赤に変わるのに気付くと同時に、前方約五四・三メートルの地点に対向して進行して来る山下裕隆(当時二六年)運転の自動二輪車を認めたのであるから、同車の動静を注視し、同車が明らかに減速し、あるいは、同車及び運転者の挙動から右折車に進路を譲る旨の意思表示があったと認められる場合等を除いては、同車が直進するため交差点に進入してくることを予見し、その安全を確認して右折進行すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠った」ことにあると解されるので、訴因の特定に欠けるところはないものと判断する。
二 公訴権濫用について
弁護人は、「本件事故の真犯人は、時差式信号について、人の生命・身体の安全に直接かかわる重要な通達を長年にわたり無視し、危険を放置してきた神奈川県警であるにもかかわらず、被告人のみに罪をなすりつけようとする本件起訴は公訴権の濫用である。」と主張するので検討するに、公訴権濫用についての最高裁判所昭和五五年一二月一七日決定によれば「検察官の裁量権の逸脱が公訴の提起を無効ならしめる場合のあることを否定できないが、それはたとえば公訴の提起自体が職務犯罪を構成するような極限的な場合に限られる」とするところ、本件記録を精査しても、検察官が本件公訴の提起に関して職務犯罪を犯した事実は認められないし、またそれに準ずる事実も認められないから弁護人の右主張は採用しない。
第二 被告人の過失について
一 検察官主張の被告人の注意義務は、前記のとおり原則としては山下車両が直進するため交差点に進入してくることを予見すべきであるが、例外として山下車両が明らかに減速する等右折車に進路を譲る旨の意思表示があった場合は右折可能とするところ、右原則と例外は青信号の場合(最高裁昭和五二年一二月七日決定等)や交通整理の行われていない交差点(仙台高裁平成五年二月一日判決等)には該当するが、本件のような被告人の認識としての全赤信号である場合には原則と例外を逆にすべきであると考える。なぜなら、クリアランス時間としての全赤信号は、交差点に滞留している右折車両等が次の現示が始まるまでに交差点を出ることができるようにするためのものである(弁51号証)から、青信号の場合や交通整理の行われていない交差点の場合と同じような注意義務を右折車の運転手に課したのでは交差点を出ることが難しくなり、クリアランス時間としての全赤信号を設けた意味がなくなってしまうからである。したがって、当裁判所は、全赤信号の場合の右折車の運転手の注意義務としては直進車がその位置・速度等からして交差点(この場合の交差点とは、道路交通法二条一項五号の十字路等二以上の道路が交わる場合における当該二以上の道路の交わる部分を指す)に進入してくるものと認められる場合(認めるべきであった場合を含む)等特段の事情があるときを除いては、右折しても過失はないものと解する。
二 そこで、特段の事情の有無について検討するに、被告人の公判供述、検察官調書(検察官証拠請求番号乙3)、警察官調書二通(乙1、2)、証人平章三同江畑四郎の各公判供述、山崎哲央の警察官調書二通(甲10、11)、実況見分調書三通(甲2ないし4。ただし、甲2及び3については証拠排除部分を除く)「スリップ痕の長さ及び転倒距離からの推定速度の算出について」と題する書面(甲7)によれば、以下の事実が認められる。
1 被告人が二度目に山下車両を赤信号(被告人は本件交差点の信号機が時差式であることを知らなかったのであるから、これからの赤信号は全てみなし全赤信号の意味である)に変わった時点で見た両者の距離は約五〇メートルで、山下車両はその走行車線上の交差点の手前停止線から約二〇メートルの地点にいた。これに関し、被告人が最初に山下車両を発見したのは右折の合図を出した時点ないし信号が青色から黄色に変わった時点であって、被告人走行車線上の停止線を越えた辺りで山下車両を見たのは明らかに二度目であり、その旨の指示説明を受けているにもかかわらず、実況見分調書(甲2、3)上「私が初めて相手のオートバイを発見したのは、<3>地点」等云々とあるのは明白な誤りであって、裁判所としては「初めて」とある部分だけを排除し、それ以外の部分は残すことも考えたが、捜査機関に実況見分における指示説明の記載のあり方について警鐘を鳴らす意味もあって、<3>についての指示説明のうち、赤信号についての部分は残し、初めて相手のオートバイを見たことに関する部分は証拠排除したものであるところ、右の約五〇メートルは証拠排除した事故直後の極めて記憶が鮮明な時点での指示説明に基づく両車両間の距離の数字と数値が近いことからも信用性が高い。念のため、検証すると、被告人の対面信号が赤に変わった地点<3>から<4>を経て、被告人が危険を感じた地点<5>までの距離は七・三メートルであるところ、この距離を時速一五キロないし二〇キロメートルで進行していた被告人車両は一・三一秒ないし一・七五秒かかることになるが、他方後記認定の通り時速七〇キロないし八〇キロメートルで進行していたことを前提として、山下車両が印象したスリップ痕六・八メートルのうち印象の初めから<イ>地点(被告人が<5>地点の時の山下車両の位置)までに要した時間は別紙計算表のとおり〇・二五秒ないし〇・二九秒として、残りの時間を時速七〇キロメートル(秒速一九・四四メートル)ないし時速八〇キロメートル(秒速二二・二二メートル)で走行していたとするとスリップ痕の印象の初めの地点から一九・八三メートルないし三三・三三メートル田浦方面よりに位置していたことになり、これは前記のとおり山下車両が停止線の手前二〇メートルにいたとすると交通事故現場見取図(甲2)の図上測定ではスリップ痕の印象の初めまで二五・四メートルとなることからして、前記距離(両者間の距離五〇メートルあるいは停止線から二〇メートル)の正確性が担保されたことになる。そして、山下車両が停止線の手前二〇メートルの地点にいたことになると、前記の交差点の定義に従えば、交差点進入までの距離は同じく甲2の図上測定で三二・五メートルとなる。なお、被告人は公判供述で、最切に山下車両を見たのは同車両が距離案内の標示板のある辺りで、二度目は同車両が小さな路地辺りにいた時であると、それまでの供述を覆しているが、事故から一年近く経過していた平成九年九月六日に工藤弁護人と共に行った現場調査でも特定できなかったにもかかわらず、何時どうような経過で判明したのかはっきりしない上、標示板や路地と言った目印になるものがあったのなら、もっと早く判明して然るべきであること等からして、被告人の右供述部分は信用できない。
2 山下車両がブレーキをかける前に時差式信号機の青色表示に従い交差点に向けて直進していた(この点において山下車両に過失のないことはもちろんである)時のスピードは時速約七〇キロないし八〇キロメートルであるとみられるが、被告人はこの山下車両の速度を認識していなかった。前記のとおり、被告人は危険を感じる前に二度にわたり山下車両を見ているのであるが最初は離れていることもあってライトの光を見ただけであり、二度目も右折する平成町の方に注意が向けられたため、いずれも短時間しか見ていない上山下車両が赤信号で停止するものと思っていたこともあって、山下車両の速度を把握していなかったとみるのが相当である。被告人の供述調書中には山下車両の速度は時速七〇キロないし八〇キロメートルと思いますと山下車両速度が分かっていたかのごとき記載部分(乙1)があるが、これは警察官から聞かれ、二度目に見た時の山下車両の位置と危険を感じた時の同車両の位置等事故の状況から結果論的に述べたものと解される。次に、山下車両の速度を認識していなかったとしても、認識しえたのではないかであるが、これについては、被告人の公判供述中には「あの道の国道一六号、あの夜の状況であれば、七〇、八〇で走ってくるということは、想定するべきスピードだと思います。」とか「あの時間で、あの夜にバイクで走ってくるんであれば七〇ぐらいは出ても普通じゃないのかなっていうことで」等山下車両の速度を認識しえたかのごとき部分があるが、対向車は赤信号で止まると思った等の供述と照らすと、右公判供述はあくまでも青信号を前提としてのもので、被告人自身が山下車両の速度を認識しえたことを自認しての言葉とは解されない。また、被告人は、最初に見た時は山下車両は四輪車の後にいたが、二度目に見た時は四輪車の前にいたとしているが、これは相対速度であって、山下車両の速度が七〇キロないし八〇キロメートルであったことを認識しえたことにはつながらない。かえって、被告人車の後続車両の山崎運転手(同人は運転経験約一〇年でその供述調書からも伺えるように被告人車と山下車の事故の前後の状況を客観的に冷静な目で見ている)が、山下車両の速度は時速五〇から六〇キロメートルであったとしていること及び前記最高裁昭和五二年一二月七日決定が、制限速度が本件と同じ時速四〇キロで、道路の幅員が本件より倍以上広い道路、時間的にも本件より夜遅い午後一一時五五分ころ、しかも青色信号であった事例について、制限速度を時速一〇キロメートルないし二〇キロメートル程度超過して走行していることを予測すべき注意義務があるとしていることからすると、被告人が認識しうべきだった山下車両の速度は時速五〇ないし六〇キロメートルであったと判断する。
3 以上の事実に加え、本件事故時と同じように乾燥した舗装道路の急ブレーキをかけたときの制動距離が五〇キロメートルで二四・五メートル(江畑証言)、六〇キロメートルで三二・七メートル(この部分は当裁判所に顕著な事実)であること(時速六〇キロメートルの場合には山下車両は交差点入口上に位置することになる)からすれば、被告人が本件交差点を右折するに当たり、山下車両が交差点内に進入してくるものと認められる場合及び認めるべきであった場合等特段の事情は認められないから、被告人の本件右折進行については過失責任は問えないものと判断する(このことは、前記山崎運転手が当初事故の原因がバイクの信号無視と思ったことからも裏付けられる)。
なお、時差式信号機について、これを問題にしてきた弁護人は当然のことであるが、時差式信号機に関する部分を訴因から除いた検察官が論告の中で情状とは言え時差式信号機について触れ、また本件事故の原因について被告人か県かについて言及しているので、当裁判所も一言述べると、本件証拠からして、本件交差点の時差式信号機について、少なくともその旨の標示板の設置があれば、本件事故は起きなかった可能性を否定できないものと判断する。
三 以上のとおりであって、本件事故について被告人に過失があったことを認めるに足る証拠はなく、本件公訴事実は犯罪の証明がないことに帰するから、刑事訴訟法三三六条により被告人に無罪の言渡をする。
よって、主文のとおり判決する。
(求刑 禁錮一年二月)
別紙
計算表
スリップ痕の印象の初めから<イ>地点までの走行時間は以下の計算式で求められる。
<省略>
t=2S÷(V+V0)
V0:タイヤの滑る前の速度
V :滑った後の速度
g :重力加速度=9.8
S :滑り距離=5.4 ~スリップ痕の印象の初めから<イ>地点までの距離
μ :摩擦係数=0.7
山下車両が時速80キロメートルで走行していた場合
<省略>
t=2×5.4÷(22.22+20.49)=0.25
山下車両が時速70キロメートルで走行していた場合
<省略>
t=2×5.4÷(19.44+17.43)=0.29
(参照 江守一郎著「実用自動車事故工学」技術書院・日本弁護士連合会人権擁護委員会編「分析交通事故事件」日本評論社)